True Romance

─平野謙

 

「恋をして、結婚したいというような意思表示をしたらしいな。そうするとその女の人は、いや、自分はあなたと一緒にいると今後進歩しない、……思想的に成長しないと思う、もっとしっかりとした人に指導されて運動のなかにすすんでいきたい、だからあなたの申し出を承知するわけにはいかない、と云われたと平野はそういったな。平野は非常に落胆したが、けれども平野のことだから、そうか、それならば已むを得ない、というふうに彼はすぐ反省するたちだから、そうして別れたんだ。近所の薬屋から赤玉ポートワインを一本買ってきて、それで別れの盃をかわした。……それを飲んで、そうしてキッスしてくれといってキッスしてもらって別れた。女は出ていったんだな」。

藤枝静男『平野謙・人と文学』

 

 その一〇年ほど前から、血管腫や糖尿病、食道癌により入退院を繰り返しながらも、活動を続けていたが、一九七八年四月三日、平野謙は蜘蛛膜下出血によって永眠し、その後、実家である岐阜県各務原市那加西市場町五−一三八八の法蔵寺に評言院釋秀亮として葬られる。

 柄谷行人は、平野謙の死に際して、『党派性をめぐって』において、「攻撃的に時代の先端を走っていた」からではなく、「何かを護ろうとする」人だったため、その死の「波紋は大きい」と次のように述べている。

 

 たとえば、平野氏はどれほど中野重治を護ってきただろう。中野重治に攻撃されているときでさえ、平野氏は相手を護っていた。平野氏の批評を「女房的リアリズム」で相手の弱みをつくものだと考えてはならない。相手を再起不能なまでに倒すことさえできたのに、一度もそうしなかった。むしろその沈黙に平野氏の凄みがあったといってもよい。だが、彼が護ろうとしたのは、中野重治という個人ではなかった。中野氏が党派性によって動いたとき、平野氏にとっても護るべき「党派性」が会ったのである。

 

 平野氏は「護る人」だった。たとえば、「政治と文学」、「芸術と実生活」という彼の理論をみればよい。それは、一見すると、「政治」に対して「文学」を護るものであるかのように見える。しかし、彼にとって、「政治」あるいは「芸術」はあくまでも正しいのだ。そうでないなら、「二律背反説」などなりたたない。したがって、平野氏が「政治」や「芸術」を「文学」や「実生活」の側から相対化しようとするまさにそのとき、「政治」や「芸術」は絶対的なものとして擁護されるのである。

 平野謙は何を護ろうとしていたのか。たとえば、ユダヤ人の文芸批評家シュタイナーは、マルクス主義は厳格な一神教(ユダヤ教)の再現だといっている。これはむろんありふれた考えだし、マルクスの著作とは無関係である。しかし、私は、日本人が真に一神教的な過酷さを経験したのは、マルクス主義においてだけだと思う。転向があれほど深刻な問題となったのは、そのためだ。たとえば、明治以後のキリスト教は一度もそんな衝撃を与えはしなかった。現に、戦時中のキリスト者集団の転向が内部から問題にされたのさえ、ごく最近のことにすぎない。逆に、マルクス主義者の転向問題こそ、キリスト教的な問題をもたらしたのである。つまり、人間の「弱さ」に即して生きることがはじめて問われたのである。

 平野氏は、そのような「神」そのものを問題にすることはなかった。彼は「同伴者」としてのつつましさにおいて、厳格に「理論と実践の統一」において生きる、革命家や私小説家に敬意を払った。むしろ彼らがそれを放棄したあとでさえ、「神」の正しさは決定的に否定されることはなかった。

 しかし、平野謙が、はっきりと「護る人」になっていたのは、六十年代になってからのように思われる。共産党や私小説がもはや権威をもたなくなったときである。「政治と文学」、「芸術と実生活」という図式はもはや意味をもたなくなった。実際に、平野氏は、「共産党や私小説がしっかりしてくれないと困るのです」と発言したことがある。それは、けっして自分の理論が通用しなくなることへのおそれなどではない。むしろ、「神の死」に際して、自らの「神」を護ろうとする決意だったかもしれない。

 

 平野謙は、その「女房的リアリズム」によって、「芸術と実生活」ならびに「政治と文学」の拮抗において、実生活や文学の優位を主張したと見られている。その執拗さにより、ときとして、「平野探偵」や「平野検事」とも揶揄される。しかし、この二項対立の上下関係を転倒するのではなく、そのヒエラルキー自体を解体するのが彼の企てである。「『政治』あるいは『芸術』はあくまでも正しい」のであって、それに対する文学ないし実生活の関係の絶対性を問い直している。

 平野謙は、『徳田秋声』において、作家を研究するのは彼がその人生の危機にいかに対処したかを知るためだと次のように述べている。

 

 ひとりの作家を通観するのは、その作家の生きかたをまなぶためである。その生き方をまなぶ急所は、生涯における危機をいかに作家はのりこえたか、のりこえそこなったか、以外にあるまい。元来近代小説とは「危機における人間の表現」の一形態にほかならぬ、というのが年来の私の考えである。『罪と罰』も『赤と黒』もわが私小説もその例外ではない。

 

 「『危機における人間の表現』の一形態」が近代小説であるとしたら、実生活が芸術に表象されることはあっても、従属しているわけではない。実生活と芸術は手段と目的の関係にはない。両者は絡み合っている。芸術が実生活での危機に対する過程の表われである点においては、西洋の小説も、私小説も、優劣はない。日本近代文学は作家たちの生活上の危機に対する態度の集合である。

 平野謙が「党派性」のために動いたのは、それが日本近代文学を発展させてきたからである。日本近代文学の原理主義者として、その原理通りに、作品を読解する。平野謙はプロレタリア文学における政治に奉仕する文学以上に原理主義的であり、プロレタリア文学も含む日本近代文学という大きな原理に忠実である。彼は三派鼎立論を提唱している。それは明治四〇年ごろの自然主義文学の成立以後に、私小説派・プロレタリア文学派・モダニズム文学派の三つの傾向がさまざまに変容しながら、日本近代文学を構成してきたという理論である。平野謙にとって、日本近代文学は各文学者が所属するある主張に基づく組織・雑誌から系列化した党派の集合体である。この党派間で抗争が繰り広げられたのみならず、党派性の教条的傾向が問題視され、その解消自体が党派闘争の一環として展開されている。党派性批判が党派間抗争に利用されてきたというわけだ。平野謙は日本近代文学を「護る」目的で、共産党や私小説が権威を失墜してもなお「党派性」に忠実であり続けたのである。「平野氏がヒラの批評家として時評のようなホマチ仕事に専念したことを、妙なふうに買いかぶるべきではない。それは、平野氏が時評をやめたときの捨てぜりふのような言葉の鋭さを見ないことになる。彼の時評は明らかに『党派性』──それをせまい意味にとってはならない──の仕事だったのであり、もはやそれが成りたたないとき、やめたのだ」(柄谷行人『党派性をめぐって』)

 こうした日本近代文学への忠誠は彼の少年期にその理由を見出すことができる。平野謙こと平野朗は、一九〇七年一〇月三〇日、京都に父履道(三五)と母きよ(二一)の間に長男として出生している。その後、蕃、伸子、美津子、馨、さや子、徹、闊、春子、和子が生まれている。一家は、朗の出生後、東京府豊多摩郡戸塚村大字諏訪に転居し、一九一一年、父が岐阜県稲葉郡那加村にある東本願寺末寺の法蔵寺に戻って住職にならざるを得なくなったため、引越している。履道は坪内逍遥から文学的な指導を受け、『早稲田文学』編集部に入り、平野柏蔭というペンネームで文芸批評を書いた経歴がある。この雑誌は自然主義文学の牙城である。履道は島崎藤村と同じ年の生まれであり、一九四四年に亡くなる。平野謙は、一九七七年一一月、自ら編纂して『平野柏蔭遺稿集』を刊行している。岐阜に移ってからも、父は息子に寺の子弟らしい教育方針をとらず、逍遥のみならず、尾崎紅葉、幸田露伴、国木田独歩、樋口一葉、二葉亭四迷、森鴎外、泉鏡花、正宗白鳥など在京時代の文壇や文学の話を聞かせている。岐阜中学時代には、特別に農家の離れを借り、そこで定期購読した『文章倶楽部』や『新潮』、『文芸時代』を読み耽り、朗少年は挫折した父の夢を担って育っていく。日本近代文学は彼にとって親子の絆であり、成長をつかさどったものである。文学で成功することは親子二代に亘る悲願にほかならない。

 第一次戦後派こと近代文学派を中心とした党派抗争は、確かに、戦後の文学を発展させている。一九四六年一月、平野謙は、本多秋五、山室静、埴谷雄高、荒正人、佐々木基一、小田切秀雄と共に、『近代文学』を創刊する。この雑誌は六四年八月まで(数回の断続を含む)全一八五冊が刊行されている。創刊時の同人はいずれも左翼運動に挫折した経験を持ち、戦時中の抑圧を経てきた彼らは、一般的に、政治の優位性を批判する論調を発表し、それがプロレタリア文学を継承しようとした『新日本文学』を拠点とする中野重治らと間に「政治と文学」論争を引き起こす。このとき、新日本文学会にも加わっていた小田切が同人を離脱している。当時最もホットな論争としてそれにとどまらず、文学者の戦争責任論や転向問題、主体性制論争など多くの議論が派生する。平野謙の論点は荒正人らとは多少異なっている。政治と文学の関係以上に、彼はハウスキーパー制度を女性を非人間的な手段として利用したと激しく非難する。昭和初期、共産党が非合法の時代、警察の監視を避けるために、男性党員が女性党員やシンパと同居して、夫婦生活をしているように装ったが、彼女たちがハウスキーパーである。これは制度化され、ときとして、男女の仲の問題に発展している。

 党派性への平野謙の感受性はその左翼体験に負っている。彼は、一九二六年四月、名古屋の第八高等学校文科乙類に入学し、本多秋五と藤枝静男の友人になっている。彼らに誘われ、志賀直哉や小林秀雄を訪ねている。一九三〇年四月東京帝国大学入学と同時に、学内のRS(読書会)に参加する。平野謙が左翼運動に関心を持ち始めたのは、マルクス主義に関する理論書に触れたからではない。

 平野謙は、『昭和文学のふたつの論争』において、中野重治の作品に惹かれてマルクス主義文学に接近したと次のように述懐している。

 

 おそらく荒正人とは異なって、私はマルクス主義文学に純粋無垢な状態でひきよせられたものではない。あんなものが自分のめざしてきた文学であってたまるかという気持と、しかし、文学インテリゲンツィアとしての自己を窮極に救ってくれるものはここにしかないとする気持がながく私の身うちでせめぎあった。私はわずかに、中野重治ひとりを見つめ、身をすててこそ浮かぶ瀬もあれ、と一種絶望的な祈りに似た気持をこめて、マルクス主義運動に近づいていったものである。かくて私は決定的な浅春の一時期をマルクス主義文学運動の影響下においた。

 

 プロレタリア文学にまったく文学的価値を見出さなかったにもかかわらず、愛読する中野重治を信じてマルクス主義運動に傾倒している。三一年春には、日本通信労働組合書記局に入り、本多秋五に促されて街頭連絡や文書配布などの非合法活動を行い、三二年、同じく本多の推薦で、日本プロレタリア科学研究所に入っている。そのころ、後に結婚する泉充の妹たづ子と出会い、また、井上良雄の『芥川龍之介と志賀直哉』に感動している。彼は悩める青年として受動的にその党派に加わり、生涯に一貫する受動性をここでも見せている。平野謙はプロレタリアートの解放を掲げる革命という体制転覆に従事する活動家ではなく、それを通じた自己の救済を願っているにすぎない。その脆弱な動機付け通り、当局の弾圧が激化し、運動が自壊・衰退し始める三四年には、検挙されることもないまま、なしくずしに、転向している。けれども、動機や思いがどうあれ、文学者は党派性に巻きこまれざるをえない。

 小林良雄や松田康雄などさまざまなペンネームを使っていたが、一九四一年、山室静と同人誌『批評』を始めた際、「シャンとした一本立ちの名にしたい」という理由から、後に文学史に残るペンネームを考案し、以降この署名に統一される。三五年四月に『進歩』での初の文芸時評「島木謙作の評価について」が「平野謙」による最初の作品だとされている。「謙」という字を選んだのは「ただケンという音を好んだから」である。「顕」にしようかとも一時期悩んだが、字画が多いし、宮本顕治からとったと推測されるのが嫌だったので、避けている。本名を名乗るという選択肢もあったはずだが、「とにかく本名を使わないことは、左翼に影響された時代の名残として、自明のことと思っていた」(平野謙『私のペンネーム』)。それは、同時に、一九九〇年前後に活躍した強肩・俊足の外野守備と巧打のスイッチ・ヒッターで知られるプロ野球プレーヤーを一度でも耳にした文学者に、その名前を忘れさせないようにさせている。

 竹田青嗣は、『世界認識のパラドックス』において、「政治と文学」について次のように述べている。

 

 私が想い出すのは、「政治と文学」というアポリアを、ソクラテス的論法で泳ぎわたった平野謙以下の「近代文学派」のことだ。当時、「政治と文学」という対立項は、時代的な難問だった(私たちはしばしば嘲笑するが軽薄すぎる。なぜひとつの時代の中で最も困難なアポリアがひとつ現われるのか、なぜそれが容易に超え難いものなのかを考えてみるべきだ。それは現在でも全く変わらない事態なのだから)。たとえば平野謙は、自分は過去に中野重治と小林秀雄から深い影響をうけた、人にはバカげたことにうつるだろうが、やっと覚悟をきめた、「ほかならぬこの二重性、中途半端の裡にこそ」自分の文学的宿命がある、と書いている(「私は中途半端が好きだ」)。平野謙がとったのは、要するに、中野重治(政治)と小林秀雄(文学)という両極の「情熱」のあいだを生きることだった。私にはそれは、問題を、「はっきりさせる」のではなく、むしろ解決不可能(=アポリア)という相で存在させることによって、自身の文学的情熱を引き延ばすことだったと思える。

 

 近代文学派は「ひとつの時代の中で最も困難なアポリア」として「政治と文学」をつむぎだし、その挑戦者を募集したというわけだ。こういったトピックは党派抗争に不可欠である。他にも、アポリアをめぐるさまざまな論争が次々に生まれ、同誌は文学界を活性化し、多くの作家の登場を促している。こうした数々の論争は同人拡大にもつながり、花田清輝、野間宏、福永武彦、中村真一郎、安部公房、武田泰淳、原民喜らも加わった大集団になった時期もある。批評中心の雑誌だったけれども、埴谷の『死霊』を掲載している。一九五〇年代後半から、初期同人よりも若手の執筆が増え、新人発掘の機能も果たしたものの、雑誌自体は徐々に衰退し、東京オリンピックの六四年、休刊を迎える。高度経済成長による人口流出と開発により地方の伝統的な生産関係・様式が崩壊し、日本全体が都市的な均質化した風景に覆われていく。日本近代文学が前提としていた党派性もまた効力を失っていき、一九五六年一月から始めた『毎日新聞』の文芸時評欄の担当を平野謙は、学生運動が最高潮に達する六八年一一月、とうとう降りる。

 竹田青嗣は、『日本近代文学という発想』において、日本の文学界での平野謙の果たした役割を次のように述べている。

 

 日本の近代小説を「芸術と実生活」という二律背反にとらえ、それを「政治と文学」という新たな二律背反へと「揚棄」すること、それが平野における「私小説的文学精神の方法化」ということの現実的意味あいでなかったろうか。磯田光一は平野の方法を「私小説的思惟によって私小説的思惟を撃つという、きわめて逆説的な道程」と評したが、そういう言い方はもはや奇妙である。私たちはむしろ次のように言うべきであろう。日本の私小説を成立させたまさしくその思惟のかたちこそが、平野の私小説観、日本近代文学観を可能にしているものにほかならないと。つまりそこでは批判されている私小説と、私小説を揚棄しようという欲望が、ともに同じ「文学」的な問いの内側にあるのだ。

 

 平野謙の「日本近代文学」なる発想は、奇型化し逼塞した日本の近代小説の道すじを、いかに戦後という新たな時代(“歴史”)の中で治療するかという課題の中で発見されたといえる。しかしすでに見て来たように、彼が現実的に果たしたのはむしろ逆の事態であった。つまり、日本文学を貫流していた「文学」的問いを、彼は戦後文学の発想の枠組みの中にほとんどそのままの形で延命させたのである。それはただ「芸術と実行」というより素朴な形から「政治と文学」という新たな命題へ移し変えられたとしか言えない。

 

 平野謙の私小説批判は対象である私小説と同じ基盤に立脚している。その意味でそれは真の批判とは言えない。しかも、「政治と文学」という問題は「芸術と実生活」と構造的に同一であり、平野謙は「日本文学を貫流していた『文学』的問い」を歴史的・社会的変化の中で「延命」させただけである。平野謙の批評は日本近代文学における問題点を是正し、健全にすることを妨げる役割を果たしている。

 しかし、平野謙は確信犯である。彼は問題点が見えていたにもかかわらず、あくまで日本近代文学を「護る」ために、そう振舞い続けている。彼ほど日本近代文学の底流を理解していた批評家はいない。夏目漱石の『道草』や志賀直哉の『暗夜行路』の翻訳者であるエドウィン・マクレランは、柄谷行人の『感じることと考えること』によると、「おおかた方の日本の批評家よりはるかに日本の近代文学の底流を理解していた。たとえば私は彼によって宇野浩二の面白さに開眼させられたほどだった。彼が批評家では平野謙を評価していたこともつけ加えておこう」。日本の文芸批評家は、多くの場合、海外の日本文学の研究者から軽視ないし無視されている。そもそも日本の文芸批評を翻訳しようという試みさえ稀である。日本文学の特集を雑誌が組んだとしても、批評が掲載されることはまずない。そんな中、マクレランほどの研究者が一目置く批評家が平野謙である。

 平野謙自身がこの二つの論争の反復性を自覚していることは、『文学・昭和十年前後』の次のような記述から明らかである。

 

 一口にいうと、昭和十年前後という時期を、私は現代文学の根本的な再編成のエポックと考え、その具体相を私なりに明らめたい、と思っている。だから、昭和十年前後という文学史上のエポックを、もう一度私なりにほじくりかえしてみたい、と考えたのである。

 

 彼は意識的に同じ構造の「昭和文学のふたつの論争」を提起している。と言うのも、「昭和十年前後という文学史上のエポック」である以上、そのころに起源を持つ文学的問いの「芸術と実生活」や「政治と文学」が論じられることは不可避だからである。昭和十年前後は日本近代文学の「根本的な再編成のエポック」であって、以降はその延長にあり、論争は時代的な変化に応じているだけで、本質的には同じである。

 磯田光一は、『平野健論』において、平野謙の理論の「ゆがみ」自体が日本近代の「ゆがみ」を表象していると次のように言及している。

 

 そして人間が何といおうと、歴史が二度と繰返さぬかぎり、その「ゆがみ」こそが唯一の現実であったということを認めることなしに、私たちは日本の「近代」について何事も語ることはできない。平野謙を凡庸な近代主義者から截然と分つ要因こそ、「近代」という名の土着的な伝統を、自分の血液の問題として語ったという事実を措いてほかにない。

 

 しかし、こういう「凡庸」な意見は、『椿三十郎』の城代家老睦田のような食えない狸の面を見失っている。平野謙は日和見な現状追認などしない。

 

睦田 わしに人望が無かったことがいかんかった。このわしの、間延びした顔にも困ったものだ。昔のことだが、わしが馬に乗ったのを見て、誰かこんなことをいいよった…「乗った人より、馬は丸顔…」

(黒澤明『椿三十郎』)

 

 平野謙は日本文学の現状を知りぬいた上で、最適の代替案として自説を提示する。抜け目のないしたたかなタフ・ネゴシエーターである。たんなる安易な修正主義者ではない。平野謙は私小説の支配という日本近代文学の既成事実に対し、代替案を提示する。その支配を完全に覆すことはしない。彼は交渉的な読解を行っているのであって、一方的に自分の主張を押し通すことは極力避けている。確かに、私小説は後戻りできない状況をつくりあげ、他の文学に協調路線を強いている。その圧力に対し、正面衝突を避けながら、代替案を模索するのが得策である。既成事実の大きさに囚われすぎて、相手を正面から批判し、代替案を提示しないと、私小説は自分を正当化することに専念し、現状打破の道が閉ざされてしまう。泣き寝入りをせず、相手に理解を示し、相手の面子を保つ代替案を示す。彼にとって、文学論争は、あくまでも、交渉である。「交渉は。暴力的手段によることなしに、利害をめぐる対立を解消し、利益を実現するための話し合いのプロセスである。交渉の基本は、ギブ(譲歩)とテイク(獲得)であり、決して勝つか負けるかのサバイバルゲームではない」。「交渉には要求と譲歩があり、要求のために譲歩があり、要求のために情報がなされる」(中嶋洋介『交渉力』)。交渉は決して一点を目指さない。ある交渉終結領域に向けて進められるため、曖昧さが残らざるを得ない。狭い領域で交渉が行われると、決裂しやすい。その匙加減が公証人の腕の見せどころである。

 森毅は、『過激派とのつき合い』において、交渉の過程について次のように述べている。

 

 このごろは、団交などもあまりなくなったが、あれだって世間が考えるほどに敵対的なものではなかった。どなりあっていても、ものの一月か二月もすると、教授と学生として顔を合わせねばならぬ。そのときに、おたがい気まずくならぬように、というのが最も気をつかうところだ。団交の多かったころには、団交中毒というものもあった。こちらの片言隻句に野次が飛んでくるので、表現に神経を使うし、反応がすぐに来る。ところが、日常の授業になると、こちらが嘘を言ってしまっても気がつかない。団交の緊張感が妙になつかしくなるのだった。

 そのころの団交評論では、「四分六か七三か」と言われたものだ。五分五分の分かれだと、当局はなんと言っても制度的権力なので、「当局の勝ちすぎ」になって、状況に合わない。そうかと言って、学生側が八分も勝つと、これは「学生の勝ちすぎ」で、彼らの事態処理能力の手にあまる。だから、七三か六四かの比較的狭い幅のなかで、断交という名のイベントがあるのだ。

 その調子を知るために、予備折衝がある。べつに「ボス交」のとりひきをするのではない。おたがい相手の調子の瀬ぶみをするのである。

 

 平野謙は、決して、相手を再起不能になるまで追いこまない。交渉終結領域を超えた結果を導き出してしまえば、自らの処理能力にあまり、日本近代文学自体を破綻させかねない。自分の意見を強く主張するよりも、相手の主張をうまくかわすように心がけている。相手を論破できるとしても、日本近代文学全体が衰えては元も子もない。

 こうした交渉人的傾向は情報局勤務という経験に起因する。平野謙は一九四一年一月から四三年六月まで情報局第五部第三課に所属している。その後、日本文学報国評論随筆部会幹事を務める。彼は、野上弥生子との対談『歴史的現実と創造』において、「どんなことがあっても戦争にだけはいきたくない、という気持ちが強うございました。ですから、もし兵役をのがれる機会がございましたら、悪魔に魂を売り渡しても、何でもいいから、それは利用すべきだ、という気持があったんでございます」と言っている。四三年に召集された弟徹を見送ったとき、弟が京都学派の受け売りを口にする姿に、中山和子の『平野謙─人と作品』によると、不機嫌に「戦争の性格と成り行きは山田風太郎『日本資本主義分析』に書きつくされている通りさ」と吐き捨てるように答えている。平野謙はこの仕事と文学を両立させる。情報局に勤務していたため、彼は当時の文学事情を表も裏も知ることができたので、文学者たちが行動しようとした際、当局や時局の動向を暗に伝えている。当局から睨まれる可能性があるにもかかわらず、大井広介や小熊秀雄らの『現代文学』を含めいくつかの同人誌や文学研究会にも出席している。多くの文学者が検挙される中、言うまでもなく、彼はただの一度も逮捕されていない。

 『情報局とは』に見られる情報局に関する記述は、平野謙が一般の文学者たちと違うセンスを持ち合わせている点を明らかにしている。検閲について、ほとんどの文学者は検閲される側から見ているため、粗雑な知識しか持っていない。検閲制度を官僚組織が行う以上、そこには官僚機構の弊害が反映している。陸軍報道部と海軍報道部、情報局、内務省検閲課などの間で、縦割りに縄張り争い、予算の配分、学閥、前例主義などが絡み合いながら、検閲制度が実施されている。

 平野謙は、『情報局とは』において、検閲にも「統制」と「指導」の二種類があり、自分が属していたのは主に指導の方だったと次のように述べている。

 

 情報局といえば、戦時中の一元団体たる文学報国会を所管した情報局内の一部課と情報局全体とを混同する嫌いさえ、文学者は持っているようにみえる。たまたま私は文学報国会を所管していた第五部第三課の嘱託だったので、少し内情に通じているから断言してもいいが、第五部第三課などは情報局全体のなかでは、最もウェイトのかるい微弱な部課に過ぎなかった。つまり、それは文化面の育成という部面を担当する、いわば抽象的な一課家にとどまる。その抽象的な役割をいかに役所ふうに軌道にのせるか、についてはじめはみんな困惑していたのが実情だろう。第五部第三課の課長は逗子八郎というペン・ネームを持つ歌人井上司朗だった。(略)生えぬきの官僚でなかったせいもあろうが、内部では少しバカにされていたのが、私などにもうすうすわかった。だから、文化藝術における指導育成という抽象的な役割を具体化するには、日本文学報国会とか大日本言論報国会とかいう一元的団体をやたらに作って、それに若干の助成金を与える、ということにならざるを得なかったのだ。新聞やラジオの統制、図書の発禁、配給紙の統制などをうけもつ部課とはどだいウェイトが違っていた。紙を握っているわけでもなければ、発売禁止にする権力を持っているのでもない。抽象的といわざるを得ない所以である。

 

 文学者を統制する目的で、情報局が文学報国会を設立したと思われているが、それは「文化藝術における指導育成」という「抽象的な役割をいかに役所ふうに軌道にのせる」方策である。統制は配給紙の制限・停止などの現実的な権力行使であり、有力な部署の既得権である。マイナーな部署は自らを維持するために、外郭団体をやたらと作って、助成金を与え、権益を確保する。この手法は現在でも続いている官僚の手口である。「たとえば、米の市場開放。米価を統制する食管法は戦時体制の一環である。いまの教育体制も国民学校令がベースになっている。昔はもう少し学校と距離感があったが、国民学校令から続く一連の流れのなかで、猫も杓子も学校に通うようになった。種々の管理体制も、ほとんど戦時中にできあがっている」(森毅『五五年体制じゃない、三〇年体制の崩壊なんだ』)。

 

 教科書の著者と調査官とは、敵対関係のように思われているが、ゲームの敵手のようなところがある。調査官は、自分はものわかりのよいような姿勢をとりながら、後の「わからず屋」がいることを暗示しながら、著者を牽制する。本当に、そんなものがいるかどうか、こちらにはわからぬのだが、もしもいるとしたら、そちらに向かっては、うるさい著者をまるめこんだと言って自慢するだろう。

(森毅『検定ゲーム』)

 

 この勤務経験は、かつての運動体験と合わせて、晩年に生かされることになる。一九七〇年三月、東京都施行の区画整理事業の計画が決定すると、その反対運動として喜多見区画整理対策協議会が結成され、平野謙は責任者に推されている。「天降り的な町づくりを排して、住民参加による町づくりを希うのはもとより当然だが、それ以前の問題として、私どもは住民に所有地の強制的な無償提供つまり土地のタダ取りを本質とする区画整理方式に、私権擁護の立場から反対するものなのである」(平野謙『土地区画整理法のカラクリ』)。この運動のポイントは情緒的ではなく、区画整理に伴う用地買収とその利権の不透明さにある。『区画整理法は憲法違反』に収められている文章を読むと、戦時中の経験を踏まえて、官僚や政治家がどう考え、動くかを精緻に記し、平野謙が感情に訴える作家と言うよりも、法的・政治的・経済的な視点を持ったジャーナリストであることを表わしている。「ただ最後に、田中角栄の提唱する『公共用地を生み出すために、土地区画整理方式を土地づくりに全面的に活用する』ことが区画整理法の歴史的・現実的にかんがみて、完全にさかだちした本末転倒の論にすぎないことを、重ねて強調しておきたい」(平野謙『わが住民運動の一結論』)。

 明らかに、平野謙は、この論理性を見る限り、あの文芸批評の方法を同時代的な文学における自分の立場を考慮して意図的に行っている。産業として発展した出版産業を意識して、論理的に書けるにもかかわらず、したたかにあのスタイルを使っている。三浦雅士は、『戦後批評ノート』の中で、「作品は作者と読者の間に立つ透明な衝立ではないと、小林秀雄は述べているのである。平野謙の方法は、作品成立にともなうこの基本的な事実を無視し」、小林秀雄が「達した地点からはるかに後退したところでその批評を展開している」と批判している。その作家の文学的・社会的地位を自明視して、作者の意図を探り、その通りに作品が仕上がっているかどうか検討するのは、結果と原因をとり違えているだけで、「意味がない」。しかし、論理的に「本末転倒」を指摘する先の文章を目にすると、この批判の方が「意味がない」。平野謙は確信犯的批評家である。小林秀雄は告白としての批評を確立したのであり、平野謙の批評は諷刺である。私小説は日本的な告白の文学と見なされてきたが、平野謙はそれを諷刺として扱う。小林秀雄の批評が文学的ヘゲモニーを獲得して以来、告白が批評の主流になってしまい、それ以外は批評ではないあるいは「後退している」と排除される。ところが、平野謙は私小説だけでなく、近代文学派の批評も諷刺している。平野謙の批評はソクラテスを主人公にしたプラトンの著作のようだ。

 平野謙は、『私小説の二律背反』の中で、私小説の発展を分析している。近松秋江の『疑惑』に見られる「人性そのものの罪ぶかさ、いやらしさ」の懺悔と白樺派を代表にした「文壇交遊録」が示す「作家たるものの行蔵が一般読者の興味をひかぬはずはない」という戦略の二つの流れから私小説が形成されている。

 人間を自然科学に基づく実証主義的に描かねばならないとする自然主義文学は、国民国家=産業資本主義体制がもたらした都市住民の生活を舞台として、ゴンクール兄弟やエミール・ゾラなどの一九世紀フランス作家の作品に出現し、日本では、ゾラが日清戦争から日露戦争にかけての時期に紹介され、小杉天外の『初すがた』(一九〇〇)や永井荷風の『地獄の花』(一九〇二)は最初の影響例である。一九一〇年代に入って近代国家体制が確立されると、国家と個人の間の葛藤や脱封建的な国民の生と死が問われ、自然主義文学が本格的に流行する。「人生の従軍記者」を目指した島崎藤村が『破戒』(一九〇六)において被差別部落出身者の苦悩を描き、実際の従軍記録を著わした田山花袋が『蒲団』(一九〇七)で性をめぐる中年作家の苦悶を率直に告げ、自然主義文学が一気に評判を呼ぶ。『早稲田文学』や『読売新聞』などの活字メディアに所属する作家や記者がこの動向に同調し、徳田秋声、正宗白鳥、近松秋江、真山青果が登場し、文学的論争だけでなく、政府・行政の帝国主義政策やメディアの代理戦争が絡みつつ、文壇の主流派としてヘゲモニーを獲得している。ところが、この自然主義は人間と社会を自然科学的に観察すると言うより、古臭く狭量な地域社会を舞台として、因習や権威からの解放を求めて大胆に体験や気分を記すスタイルであり、身辺雑事を自己没入的に描写する傾向が強くなり、私小説と化していく。作家自身である「私」を主人公とし、その日常生活をただ綴るこの一人称体の小説は、大正時代に、セクト的な白樺派の「自分」を語る流れを通り、昭和初期にかけて、純文学として日本の小説の主流となっている。

 平野謙によれば、「生の危機意識に対する救抜済の希い」が作者が主人公として綴ることにより、「人生」においても、「思想」においても、「不動のリアリティ」を獲得した小説の一形式である。この隆盛は文学志望者が「現世救済者」や「逃亡奴隷」だったことに由来している。彼らは生活不能者ないし性格破綻者であり、そのプライドを支えたのは芸術家の「真実性」だけであり、これが世間や周囲に示しうる唯一のアリバイである。「みじめな日常生活の断片とその破壊的なすがたにおいて文学の世界に持ちこむしかなかった」。

 平野謙は、『私小説の二律背反』において、「芸術か家庭かの二者択一が芸術家生活の場合にしばしばおこりがちな所以」と「わが私小説家をめぐる独特の二律背反が生ずる」理由を次のように述べている。

 

 芸術家の場合、わけて日本の私小説のような場合、その芸術家生活の持続と家庭生活の平穏とはしばしば一致しない。家庭の和楽は芸術家の情熱をなしくずしに停滞させ、家庭の危機という餌食によって、はじめてその芸術衝動は切迫感を獲得する。さきにふれたように、私小説が生の危機意識にモティーフを持ち、その危機感が形而上的な生の不安や孤独から隔絶された具体的なものとして成立している以上、そのような傾斜はまぬかれがたいのである。

 

 私小説は、そのため、書き続けるには私生活を犠牲にせざるを得ず、調和的な生活を送ってしまえば筆を置かなければならないという二律背反に直面する、

 平野謙は、『私小説の二律背反』で、私小説家は本末転倒に直面すると次のように続ける。

 

 もはやそこでは、一篇の作品を構築するにたる旺盛した実生活がいとなまれ、作者はその生活を題材としてそれに芸術的秩序を与えるというようなノルマルな芸術と実生活との相関関係は逆転して、いわば描くにたる実生活を紛失しながらなお描きつづけねばならぬために、その日常生活において危機的な作中人物と化さねばならぬという一種の価値傾倒がそこにおこなわれるのである。

 

 森鴎外や志賀直哉には「実生活」と「芸術」の調和的関係に至る方向が見られ、特に、伊藤整が、『鳴海仙吉』で、その「不毛な二律背反をよく救済する」試みを行い、「私小説文学精神の方法化」を具現している。日本の自然主義文学の窮屈な姿勢は、私小説の二律背反という視線の方法化を通じて、その特性を生かしながら、止揚される。

 私小説は、当然、西洋的な告白と異なっている。私小説は近代化の中で派生した社会の鼻つまみ者が生きるために辿り着いた文学であり、そもそもB級文学にすぎない。私小説には、告白の持つ知的な傾向が失われてしまう。

 こうした文学者像は平野謙の生活自体が描かせている。一九三〇年、彼は東京帝国大学文学部社会学科に入学したものの、三三年に中退した後、三八年、美学科に再入学し、四〇年、『ドストエフスキイ論』を提出して大学を卒業する。その間、文芸批評家として多少知られていたが、竹村書房の校正の手伝い(月給二〇円)など収入は安定せず、「大学は出たけれど」、三三歳まで親の脛をかじっている。三八年一一月、『学芸』に「明治文学評論史の一齣─『破壊』を続る問題」を発表するものの、戦後、中村光夫が『風俗小説論』でその意義を発見するまで、文壇から無視されている。平野謙によれば、自然主義文壇主流による従来の『破戒』論は個人の「自意識上の葛藤」から把握してきたが、この小説は近代化における新たな問題、すなわち社会対個人の矛盾・相克を描いている。「明治三十年代の市民社会の市民的自由への翹望」という「新しき個人の苦痛」に着目した社会的・歴史的作品である。この『破戒』論は、今日、藤村研究における最大の基本文献である。借金を抱えながら、父履道は息子朗に仕送りを続け、中山和子『平野謙─人と作品』が引用する平野謙の妹春子の書簡によれば、母きよは、満州から裸一貫で引き揚げ、独学で農業経済学者になった蕃を自慢の息子と褒め、「愚兄賢弟」だと日頃から漏らしている。ただ、平野謙の事務局での事務能力の高さを考慮すると、彼が就職できず、収入に恵まれなかった理由は恐ろしく運が悪かった以外にない。一九四一年一月に、熱心な求職活動をしたおかげで、情報局第五部第三課の嘱託(月給一〇〇円)となり、ようやく「生活不能者」から脱却している。

 

ぜにのないやつぁ

俺んとこへ来い

俺もないけど 心配すんな

みろよ 青い空 白い雲

そのうちなんとかなるだろう

 

彼女のないやつぁ

俺んとこへ来い

俺もないけど 心配すんな

みろよ 青い空 白い雲

そのうちなんとかなるだろう

 

仕事のないやつぁ

俺んとこへ来い

俺もないけど 心配すんな

みろよ 青い空 白い雲

そのうちなんとかなるだろう

 

わかっとるね わかっとる わかっとる

わかったら だまって俺について来い

(植木等『だまって俺について来い』)

 

 「私小説文学精神の方法化」をしているのは『鳴海仙吉』ではなく、平野謙の批評自身である。磯田光一は、『平野健論』の中で、私小説など既存の文学に愛着しながら、そのスタイルを使って、逆説的に、批判していると指摘している。しかし、平野謙は私小説的方法によって私小説をアイロニカルに撃ったのではない。私小説の方法を意識的に用い、その潜在的な可能性を顕在化させたのである。

 平野謙は、「『昭和文学覚書き』のあとがき」において、「文学史など色目もつかわないで、小説を書くべきだったのだ」と告げ、次のように後悔している。

 

 私と同年輩の井上靖も大岡昇平も松本清張も本気で小説を書き出したのは、戦後のことである。私にも一つだけ書きのこしておきたい小説の題材があった。当時それを書きあげていれば、あるいはそこから現在とはちがった運命がひらけたかもしれない。それを安易なコースをえらんでしまった最初の躓きの石が、あの文学辞典の編纂だった、と後年思い当たったことがある。現在も以前として全集の解説などが主たる営業種目という私自身のコースが、このとききまった。

 

 平野謙の批評は、花田清輝や吉田健一同様、小説的な要素が強い。彼は近代文学における自然主義の克服を課題としている。平野謙はそれを実践する。彼の批評は、作家の生活に結びつけて作品を解釈し、その屈折の投影を見るという私小説的読解、すなわち私小説の手法のパスティシュである。それは、狭義では、小説でも、批評でもない。

 平野謙は、『私は中途半端がすきだ』において、「中途半端性の裡」に自分の「文学的宿命」があると次のように述べている。

 

 過去において私は中野重治と小林秀雄とをひそかに信奉し、そこから文学的影響を受けたいと希った。いまでも希っている。おそらく人には馬鹿げたことにうつるだろう。しかし、やっと覚悟をきめた、ほかならぬこの二重性、中途半端性の裡にこそ、もしあれば私自身の文学的宿命の存することを。

 

 この「中途半端」さ、すなわちB級意識が彼の批評の精神である。平野謙は文学的課題に基づきB級文学のスタイルで批評を書く。それはB級の、B級による、B級のための批評にほかならない。

 平野謙が『昭和文学史』を書くとき、彼は正統的な文学史が切り捨てたB級作品を見出そうとする。一九二八年に結成されたナップ(全日本無産者芸術団体協議会)以前をプロレタリア文学前史として抑圧さられた文学の中にあった可能性を発掘してみせる。このB級も当時の文学シーンを活発にしていたのである。

 同様の史観に基づき、平野謙は、『社会主義リアリズム論争』において、昭和一〇年前後に次のような可能性があったと指摘する。

 

 混乱しながらもマルクス主義的と自由主義的、社会主義的と革命的、プロレタリア的と進歩的などの提携の可否を争点とする流れと、もうひとつは広津和郎の新聞小説論から横光利一の純粋小説論にいたる純文学的と通俗小説的との統一・分離をめぐる流れとがからみあいながら、混沌たる昭和十年前後の文学的リアリティを形成していたようである。みんなそれぞれ懸命になりながら、自分の立っている地点が全体のなかのどの位置かも定かでないままに、たがいに必死になって主張し、論争しあわねばならなかったあんばいである。

 

 平野謙は、こうした状況下、日本的な「人民戦線」の可能性があったと言っているが、こういう発想自体B級である。彼は文化を活性化するB級文学を調べあげ、そこにひそむ荒唐無稽なまでの可能性を正統史の代替案として描く。

 むしろ、平野謙は日本近代文学の主流自身がB級文学の系譜と考えていたと見るべきだろう。彼は、対談『戦後文学二十五年』の中で、「昭和文学の特徴はみな資質に反しているといえないこともない」と発言し、「横光利一など資質に反した一典型だと思う。資質に反してああいう新感覚派的な仕事をずっとしてきた。だからこそ彼はなんといっても昭和文学の代表的作家なんですよ」と言っている。B級文学の群像に平野謙は読む喜びを覚えている。

 伊藤整は、講談社版『現代日本文学全集』第九七巻解説において、『新生』はつまらないが、平野謙の『新生』論は面白いと次のように述べている。

 

「新生」は、この平野謙の「新生論」がそれとともに読まれぬ限り、一般読者にとっては意味のない小説以前の書きものだ、と私は言ひたい。そしてその作者の糾弾者兼牧師の手になつた「新生論」とともに読まれるとき、突然「新生」は、したたかに人間の味ひを嘗めつくしたという怖れと満足とを与えるところの傑作に変貌する。

 

 これこそが平野謙の最大の能力である。志村正順の野球の実況中継を髣髴させるように、まったくつまらないB級作品が、彼の手によって、その可能性を明らかにされる。

 平野謙の『新生』論、すなわち「島崎藤村─『新生』覚え書」は『近代文学』一九四六年一月・二月号に掲載され、彼の戦後第一作である。これは彼の批評の中でも傑作の一つであるが、対象である『新生』は藤村の小説において駄作と見なされている。藤村は姪駒子との不適切な関係を告白しているけれども、その事実によりかかりすぎて、素朴な私小説にすぎず、作品としては、構成にしろ、描写にしろ、理論的考察に耐えられない。そんな小説を平野謙は中野重治の芸術の「自家用」という概念を援用して、考察している。彼は、前半で、『新生』における芸術的と言うよりも現実的な欲、すなわち性欲と金銭欲を満足させるために、ほとんど犯罪と呼んでいいような姪節子(駒子)を生きながらにして社会的に葬った岸本(藤村)のえげつない倫理的・経済的老獪さ糾弾する。藤村は『新生』を「自家用」に利用したわけだ。しかし、後半では、それが藤村の旧家の暗い血統に由来し、その宿命に苦悶しながら、作家による血の「浄化」に向かい、最後には『夜明け前』を完成させ、罪深き業のまま救済されたのだと閉める。

 

 「新生」が文壇的に成功して麹町区下五番地に新邸を構えた藤村は、訪ねてきた新聞記者に向かって次のように語っている。

 

 こま子とは二十年前、東と西に別れ、私は新生の途を歩いてきました。当時の二人の関係は「真性」に書いてあることでつきていますから、今更何も申し上げられません。それ以来、二人の関係はふっつりと切れ、途はまったく断たれていたのです。

 あの人もあれからあの人自身の途を歩いていたでしょうが、その後何の消息もありませんでしたが、三年ばかり前病気だからといってあの人の友人が飯倉の家に来たことがありました。その時はいくらかの金を贈りました。

 

 この記事はガラスの破片のように胸を刺す。

 これがかつて「罪なれば滅び砕けて」と唄い「嗚呼二人抱きこがれつ、恋の火にもゆるたましひ」と詩に書いた藤村とこま子の後日談譚なのである。

 私は、恋は不滅だなどとは思わぬし、別れた男と女とが、必要以上に感傷にふけるのを好むものでもないが、しかし、藤村の全文学と、このエゴチズムとは無縁ではない。

 「愛している」と口で言いながら、神への冒瀆を理由としてこま子を捨てて渡仏した藤村が、愛を売り払って一編の長編を手に入れる。その長編を発表することによって、藤村は、あらためてこま子を裏切ることになるのだということを、当然知るべきである。

 藤村は倫理を生成することを怠け、ただ古い道徳を方便として用いたにすぎなかった。

 それでは、こま子はどこへ行ったか?

 こま子は一度、台湾へ渡り、数年で帰国し、京都の三高の学生寮の寮母となった。そしれ、そこで京都の共産党委員長長谷川博を恋して結婚したが、こま子と生まれたばかりの子をおき去りにしたまま、夫の長谷川博は地下に潜って消息を絶ってしまった。

 こま子は、乳のみ児を抱えて、学用品や石鹸の行商をしたが、過労と栄養失調で倒れ、養育院で孤独のうちに死んだ。

 こま子は、生前に藤村の「新生」を本屋で買って読んだ。

 そして、自分に関する部分に、赤鉛筆で線を引きながら大切に持ち歩いていた。こまこの一生で、一ばんしあわせだったのは、叔父との恋に生きて、甘えながら「私の旦那さん」と呼んだ夜だったのであろうか。

 

  かなしいかなや人の身の

  なきなぐさめを尋ねわび

  道なき森にわけ入りて

  などなき道をもとむらむ

(寺山修司『姪・こま子』)

 

 平野謙にとって、『新生』がそうであるように、克服されるべき小説である私小説はB級文学である。私小説家はB級的存在である「逃亡奴隷」にすぎない。だが、彼にはB級文学だから面白いという倒錯性はない。B級文学の可能性を探っているだけだ。チープな私小説が主流になった結果、文学的な交流が行われ、豊かな文学土壌が育まれ、日本近代文学が発展している。夏目房之介は『マンガはなぜ面白いのか』の中で、「マンガがとても豊かな娯楽性を発揮して、大衆文化として根づいているとすれば、先鋭的な表現と定型的な表現とが互いに完全に分離しないで、交流しながら発展しているからだろうと考えられます。おうおうにして批評家やマニアがバカにしてしまうような作品、どこを読んでも同じような類型的な作品がたくさんあることによって、初めてマンガ文化全体が豊かなダイナミズムを持ちうるのです。『いいマンガ』、『優れたマンガ』、『先鋭的なマンガ』のみを評価して、『くだらないモノ』は排除するという発想でマンガをとらえると、自分で自分の首をしめるようなことになりかねません」と言っている。これはマンガに限らず、文化全般に見られる。

 森毅は、『B級文化のすすめ』において、「ホンモノというのは公認の価値を志向しているだけで、新しい文化価値を生みだすのは、A級よりもかえってB級のような気がするのだ」として、次のように述べている。

 

 考えてみれば、ぼくが子供のころに育った、戦前の宝塚文化なんてのは、レビューやショーは、フランスやアメリカのマガイモノだった。エノケンがジャズを歌った、戦前の浅草文科だってマガイモノだった。

 むしろ、マガイモノであるからこそ、そこに一つの世界を作って、文化となりえたのだろう。それが、カーネギー・ホールまで行ってしまったら、ホンモノ志向がすぎる。

 

 ぼくの好みをさしひいて、なるべく文化論的に見たいのだが、ホンモノというものは公認の価値を志向しているだけで、新しい文化価値を生み出すのは、A級よりもかえってB級文化のような気がするのだ。

 

 形をA級にしたところで、せいぜいが既成のA級に伍してとの自己満足程度で、そのA級文化だって最初はB級文化だったのだ。映画の『アマデウス』のおもしろいところは、モーツァルトのオペラをB級文化風にとらえていることだった。

 むしろ、B級文化の渦のなかから出てくるものが、時代を変える。帝劇よりも浅草オペラ、名のだ。

 光るものは、B級のなかでも光る。A級にまじったところで、光らないものは光らない。B級文化が繁栄している時代というのは、文化的に成熟した時代だ。ぼくの好みはB級でぼくの時代がやって来た。

 

 この「B級」という概念は「B級映画」に由来する。それは、一九三二年から四七年に製作された短期間撮影の低予算映画である。当時のアメリカでは、映画は二本立て公開され、その一本目に前座として低予算映画が上映されるのが通例である。大恐慌とトーキーの台頭による大幅な映画館の改修に伴う費用のため、フリッツ・ラング監督の『メトロポリス』のような大作を製作できなくなったせいである。SFや西部劇、冒険活劇など倒産と失業が蔓延する苦しい現実を忘れさせてくれるような作品が好んでつくられている。その低予算映画は「B撮影所」で撮られたことから、「B映画(B-Pictures)」と呼ばれ、前座映画の習慣がなくなっても、低予算の早撮り映画としてそれが後に「B級映画(B Class Picture)」へ転じていく。多くの場合、質が悪いけれども、ほとんどが娯楽作品であるため、『死霊のはらわた』など一部の熱狂的なマニアからカルトな人気を得る「カルト映画(Cult Film)」と見なされることも少なくない。

 

 高校生のころ、当時つき合っていた男の子のうちに遊びにいったときのことだ。

「なんか、おもしろそうなビデオがあったら、借りてきてよ。一緒に見ようよ」

 といわれ、私が駅前のビデオ屋でレンタルしていったのは、死霊のはらわた“だった別にウケねらいとか意外性をつきたかったというのではなくて、心から見たかったから選んだのだが、そのコはそっち系の映画はダメだったらしく、

「え〜っ!まじかよお。おれ、いやだよお。こんなの見るのお」と拒否されてしまった。

(ちぇっ、つまんないの)

 結局、うちに帰ってから電気を消してゆっくり見たのだが、いやあなかなかよかった。特に、あのものすごいスピードのラストシーンなんて、どうやって撮影したんだろうと目を見張った。真っ暗な部屋でひとり、思わず後ろを振り返ったほどだ。この感じ、見た人はあ、そうそう!”と、わかってくれるはずなんだけれど……。

「死霊のはらわた、よかったよ」

 あとで興奮しながら彼に電話報告したところ、ひとこと。

「ああいうのを見てよかったていう感覚がわからない。お前、悪趣味だ」

だと。(略)

 価値観の違い……からか、彼とは卒業後すぐ別れてしまった。

(水谷加奈『死霊のはらわた』)

 

 稀にではあるものの、『ターミネーター』を代表に、大ヒットしてシリーズ化したり、『カサブランカ』のように、映画史に残る傑作となったりすることもある。また、ロー・リスクであるので、新人の監督・俳優を採用しやすく、リドリー・スコットやロバート・デ・ニーロが育った通り、人材育成には、マイナー・リーグの如く、適している。

 平野謙は、文学の同時代性を意識して、アクチュアリティ説を唱えている。一九六一年九月、『文芸雑誌の役割』と『「群像」15年の足跡』を発表し、純文学論争を巻き起こす。彼は、現代の文学は全体的に俗化あるいは中間小説化しているが、戦後一五年の文学史は純文学更新と崩壊の過程であり、これは横光利一の『純粋小説論』以来の傾向であって、「純文学」という概念自体が大正末期から昭和初期に形成された歴史に基づき、文芸雑誌や総合雑誌を中心に文学が発達した時期であると訴えている。これは、松本清張を支持した通り、産業としての文学を念頭に置いた意見である。今日のメディアの成長を考慮するなら、純文学の擁護以上に、新たなジャンルを開拓すべきだという指摘は現代小説におけるジャンルの復活に呼応しており、何も奇妙ではない。かつてエドガー・アラン・ポーやジョゼフ・コンラッドが書いた小説を現代の作家は目指している。高度消費社会において、キャンベル・スープの缶を芸術作品にしたアンディ・ウォーホルを代表にするポップ・アートはこうした議論のアナクロニズムを冷笑する。”It's the place where my prediction from the sixties finally came true: ‘In the future everyone will be famous for fifteen minutes’. I'm bored with that line. I never use it anymore. My new line is, ‘In fifteen minutes everybody will be famous’"(Andy Warhol “Andy Warhol's Exposures”).映画に至っては、ビッグ・スターと大物監督を使いつつ、思いっきりB級映画仕立てのバイオレンス・アクションとラブ・ロマンスを絡めたロード・ムービー『トゥルー・ロマンズ』の脚本で大いに名を売ったクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』のように、B級映画の題材をB銃映画のスタイルで意図的に撮り、高い芸術性と商業性を兼ね備えた作品が登場している。平野謙が探していたのは三文小説の題材を三文小説のスタイルで意図的に書いて、高い芸術性と商業性を兼ね備えた作品である。

 

Jules: What country you from?

Brett: What?

Jules: "What" ain't no country I know! Do they speak English in "What?"

Brett: What?

Jules: English-motherfucker-can-you-speak-it?

(Quentin Tarantino “Pulp Fiction”)

 

 このB級文学の擁護者は、そのため、評価が決まった古典ではなく、同時代的な作品に眼を向け、その可能性を読む。彼は、『毎日新聞』上で、文芸時評を一〇年以上に亘って担当している。そこには日本近代文学へのカルトな愛情がほとばしっている。それは彼の交渉への認識から生じた教育的な読解が見られる。このカルトな批評家はいかなる作品であっても可能性を探求する。その作家の潜在性と文学全体の文化としての将来性という二つの可能性を平野謙は見つける。日本近代文学を維持させていくには新人作家の登場が欠かせない。彼は大江健三郎や倉橋由美子ら多くの若手作家を見出している。ほとんどが後に振り返られることなく、もちろん、B級作家として消えていく。しかし、それは文学の「地の塩」である。

 

 説得(誉める)と共感の交渉スタイルは学校でも用いられる。一般に、アメリカの学校教育はこのスタイルで行われている。教師たちは子供たちに対して『すごいぞ』『素晴らしい!』を連発する。()子供たちは、実に素直で伸び伸びとしている。まさに誘導と共感のスタイルである。

 これに対して、日本の学校では後で延べる強制と共感のスタイル脅しと反感のスタイルで教育が行われているように思われる。教師たちは「お前のためにいっておく、そんなことでは、東大に行けないぞ!」と叱咤激励し、子供たちはもくもくと勉強する。これは教育ではなく、訓練である。「手を抜くな!そんなことじゃ、敵に撃たれて死んでしまうぞ!死にたくないなら、その柵を飛び越えろ!」とどなる米軍の新兵訓練と大きな差はない。

 学校教育において、長所を伸ばそうとするアメリカと、短所を矯正しようとする日本。アメリカ人は教育と訓練をはっきり区別しているようであるが、日本人は区別していないように見える。

(中嶋洋介『交渉力』)

 

 「うーん。どうしちゃったんだろう。成績がほら、こんなに下がっているんだけども、まあそれは確かに、人間誰だって調子がどうも出ない、スランプだ、という時もあるんだからね、きみの場合もいわゆるそういうことかもしれないと先生思うんですね。まあこれは先生見てて思うんだけど、うーん、きみは本当はやればもっとできる、成績が上がって当然というひとつの基本的な学力的なものを十分に持っているわけで、ただどうなんだろう、それがひとつ結果的な面に出てきていないだけなんですね。ですからやればできるはずなんです。もう少し努力をしてみせるというね、そのことが先生、きみのトータル的な学力を大きくのばすことになると信じているんだ。うん。まあ、この話はこれくらいにしようね。とりあえずその元気で、明るく学校のですね、生活を楽しんでいってほしいと、先生は思っています」(清水義範『いわゆるひとつのトータル的な長嶋節』)

 さらに、平野謙は、B級文学こそが「文学の地の塩」であり、それは今や小説ではなく、文芸評論であると『文藝評論家とは』において、次のように述べる。

 

 新聞や雑誌に原稿を依頼されるとき、その末尾に編集者によって「筆者は文藝評論家」と注されることがある。そうした場合、私はしばしばふうむ、ブンゲイヒョウロンカか、とつぶやくことがある。私は東京の有名な書店の店員が文芸評論という普通名詞を全然理解しない経験にぶつかったことがある。その男はハッキリいった。「文芸評論?──雑誌はむこうのたなにならんでおりますが」と。

 作家、小説家という職業ならすぐ世間にとおる。学者という社会的身分も知れわたっている。しかし、文藝評論家とは?作家でも学者でもない、ウロンな職業にすぎない。私の故郷きってのインテリは私にいった、「あんたも政治評論家をやっとりあ、よかったになあ」と。

 本多秋五が《文学》二月号に百枚ほどの作家論を発表している。創見にみち、筆者がこの数年来苦労して探求している近代文学史の骨骼さえすけてみえる力篇である。私はこの作品にかけられた歳月、発表にいたるまでの経緯、それにしばられた稿料のたかまでおおよそ推量できるが、その推定には怒りに似た感情をともなわざるを得ない。

 もはや小説書きは「逃亡奴隷」ではない。文学の地の塩だったその栄誉は、今日文藝評論家の手に移りつつある、というのが近来の私の感想だ。

 

 日本近代文学は私小説というB級文学を「地の塩」として形成されてきたが、もはや小説家エスタブリッシュメントと化している。「文学の中の暗い部分、悪の部分というのは、昔だったら当たり前だったものです。たいていの親はわが子が文学とか哲学などに触れなければいいと思っていました。本を読む子というのは、一種の不良だったんです」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』))。むしろ、これからの文学を生み出していくのは批評である。批評は、社会的に、小説と比較して、B級の文学と扱われている。そのB級性に文化を育んでいくパワーがある。平野謙は批評においても三文批評、すなわち「パルプ・クリティシズム(Pulp Criticism)」を志向していたのであり、批評はそうである必要がある。批評は現代文学の「地の塩」にほかならない。「僕が、二十代にものを書き始めたころ、江藤淳という批評家が僕に冗談にこういうことを言ったことがあるんです。批評家というのは、背が高く、ハンサムで、金がなければいけない。そして、小説家の中間ぐらいの売行きの人と同程度に本が売れてなくちゃいけない。なぜかというと、僕もその後に気づいたんだけれども、文芸雑誌いわば文壇の中では、圧倒的に小説中心主義なのです。なにはともあれ小説家が偉い。批評家というのはその周囲にいる存在であって、中には小林秀雄みたいな別格の人もいるけれども、たいていは小説について何か論じたり、つまりは、使われている身分ですね。ていのいい広告屋なのです。そういう立場にいるんだなというのを、かなり実感したことがあります」(柄谷行人『政治、あるいは批評としての広告』)

 この逃亡奴隷の中の「逃亡奴隷」平野謙が、人生最後の仕事として、「リンチ共産党事件」を検討し、一九七六年六月、『「リンチ共産党事件」の思い出』を刊行する。一九三三年、当局は共産党に対するかつてないほどの厳しい弾圧を始める。活動家数千人が検挙され、岩田義道と小林多喜二が特高警察の拷問によって虐殺、野呂栄太郎も翌年の二月には獄中で病死してしまう。この事態を受けて、組織中央への当局からのスパイ潜入を確実視した宮本顕治等中央委員四名が小畑達夫と大泉兼蔵を厳しく査問する。その結果、小畑が急死し、大泉がスパイだと自白して遺書を書き、自殺の用意をしたものの、脱走して警察に逃げこんでいる。これが、三四年一月、「リンチ共産党事件」として新聞報道される。平野謙は、この事件を知り、「口にはいえぬようなショック」(『文学・昭和十年前後』)を受け、これが転向の一要因となる。戦時中、荒正人や埴谷雄高、佐々木基一、坂口安吾らと探偵小説の犯人当てに興じていた彼は、『「リンチ共産党事件」の思い出』の中で、殺人はともかく、小畑が官憲のスパイだったことは間違いないと主張している。小畑はかつて平野謙の下宿に半月以上居候し、着替えや交通費の面倒を見ていたが、市ヶ谷刑務所長の娘である根本松枝をハウスキーパーとし、いつの間にか、共産党中央委員になりあがっている。三三年四月に、横浜で、彼女も逮捕される。この平野謙が「別れの盃をかわした」女性は、当時、日本労働組合全国協議会(全協)の日本金属フラクの中村亀五郎の内妻であり、銀座のカフェのウェイトレスとして大金を貢いでいると報道されている。

 

「考えてみれば人生なんて不思議なことばかりだなあ、テレーズ。ぼくはバスチャンといっしょにカナダへ行こうとパリを発った。この一月というものカナダのことしか考えなかった。そして、汽車に乗っているうちに船もカナダも頭に描いてみた。

 だが、ここへ着いてみると予期したように出発できやしなかった。そして、こうしてここの家に半月から滞在している。

 ねえ、ぼくはバスチャンのように出発のことだけしか考えていないと思うかい?バスチャンのように目的から目を放さないと思うかい?

 そうじゃない、ぼくは……たとえば、きみをじっと見まもっているのだよ。いっしょにいるのが、今では本当にうれしいんだ……」

 こうした告白の仕方でセギャアルはテレーズに近づき、二人の仲はとてもうまくいきそうに見える。

 だが、セギャアルは心やさしすぎて、テレーズにキスひとつすることが出来ない。彼にはテレーズと自分とが結ばれることは、人生の最大の事件のように思われ、夢のなかでテレーズの笑顔を思い浮かべてはしあわせになっているのである。

 そのうちに──ある夜、バスチャンは酒を飲んでいて、テレーズと二人で冗談を言いかわしながらキスをしてしまう。

「発つ前には何度もキスしてやるよ。もしもシャンペンと同じくらいキスが好きならね」

 そしてそのまま子猫でも抱くようにして自分の部屋へテレーズを連れて行ってしまうのである。「セギャアルには黙ってて」というテレーズの言葉に耳さえもかさず。

 バスチャンとテレーズは、セギャアルに心を残しながら、二人だけでカナダに発ってしまい、恋人と友人を同時に失ったセギャアルは黙って海を見つめている。

 バスチャンやテレーズに、「人生がいつまでも面白いもんだと思っているのかい?」って言ってやりましたよ、と老人が言う。

 セギュアルは聞く。

「で、あいつはなんて言いました?

「だれが?」

「テレーズが」

「知らないね」と老人。

「笑ってましたか?」と聞きながら、セギャアルは目頭が熱くなるのをおぼえるのである。海に遅れて発つことは人生に遅れて発つことだと、はじめて知った苦い心で。

(寺山修司『水夫と港の女─「商船テナシチー」のテレーズとセギュアル』)

 

壁ぎわに寝返りうって

背中で聞いている

やっぱりお前は出て行くんだな

悪いことばかりじゃないと

思い出かき集め

鞄につめこむ気配がしてる

行ったきりならしあわせになるがいい

戻る気になりゃいつでもおいでよ

せめて少しはかっこつけさせてくれ

寝たふりしてる間に出て行ってくれ

アア アアア アアア アア

アア アアア アアア アア

 

バーボンのボトルを抱いて

夜更けの窓に立つ

お前がふらふら行くのが見える

さよならというのもなぜか

しらけた感じだし

あばよとさらりと送ってみるか

別にふざけて困らせたわけじゃない

愛というのに照れてただけだよ

 

夜というのに派手なレコードかけて

朝までふざけようワンマンショーで

アア アアア アアア アア

アア アアア アアア アア 

 

夜というのに派手なレコードかけて

朝までふざけようワンマンショーで

アア アアア アアア アア

アア アアア アアア アア

(沢田研二『勝手にしやがれ』)

〈了〉

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